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大阪から出た日本の歴史に生きた人々 |
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幣原喜重郎 |
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文 亀田喜一 (日本会議大阪 代表委員 株式会社カメダデンキ 代表取締役社長) |
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幣原喜重郎 明治5年〜昭和26年(1872〜1951) 幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)は戦前および戦後に幣原外交と称せられる平和外交を推進し、大きな問題があるとはいえ、第44代内閣総理大臣として現憲法の草案の作成に尽力しました。大阪府の北西部、淀川の左岸、門真市の出身です。彼の家は農家でしたが、父親がとても教育に熱心で、周囲の反対を押し切り、田畑を売ってでも、彼の兄とともに上級学校に進ませました。二人とも東京帝国大学を優秀な成績で卒業、喜重郎は同大学法学部を卒業後、農商務省に勤め、明治29年には外交官試験に合格、外交官になりました。得意の英語を駆使して、ロンドン、仁川、釜山の領事官を勤めました。大正13年(1924)、彼は51歳にして、加藤高明内閣、続いて第一次若槻内閣で外務大臣を勤め、世界に「幣原平和外交」を推進しました。しかしその頃、中国で内戦が勃発、中国への内政不干渉を貫いた幣原外交が批判され、内閣総辞職となり、幣原は外務大臣を解任されました。 |
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昭和4年(1929)大阪中学校で同窓生だった浜口雄幸が首相に就任。再び幣原は外務大臣として「幣原外交」を復活させますが、浜口首相が暴漢に狙撃され、幣原が臨時首相代理となります。 昭和6年(1931)からの第二次若槻内閣の外務大臣としても国際協調路線を毅然として貫きましたが、「軟弱外交」「非戦論者」と軍部から非難され、第二次世界大戦とともに政治の舞台から姿を消すことになります。 終戦となり幣原喜重郎は、連合国の占領下で終戦処理に当たるべく、天皇より内閣総理大臣の大命を受けました。この時の喜重郎は74歳でした。マッカーサーが憲法の改正を求めましたので、松本国務相とともにその草案作成に尽力しました。 昭和21年(1946)、幣原内閣が総辞職、続く吉田内閣で喜重郎は国務大臣として入閣します。第一次吉田内閣は新憲法公布とともに辞職しました。喜重郎は昭和22年(1947)総選挙で大阪府第三区(門真)から出馬して当選、衆議員議長に選ばれ、昭和26年(1951)、現職のまま他界しました。 さらに詳しく勉強したい方は門真市立歴史資料館へお出掛け下さい。写真、資料等があります。 Tel.06-6908-8840 |
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