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また、8月15日が近づいて来る。現在の日本の繁栄が、あまた英霊の方々の思いによってもたらされたことは感謝しても筆舌に尽くせないものがある。 ところが、今日、特攻隊の方々が託した特攻花が、桜花ではなく、外来種の花であるといった、まことしやかな噂話が広がっている。このような史実を曲げた話が通じてしまえば、英霊のお気持ち、ひいては靖国神社で再会しようとの戦友、御遺族の方々のお気持ちまでも蔑ろにてしまうものではないか。 その問題点を実証的に指摘されたご文章を万世特攻慰霊碑奉賛会理事の苗村 七郎先生にご文章を頂いたので、数回にわたり連載することとした。 |
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【苗村 七郎(なえむら しちろう)先生のプロフィール】
もくじ 黄色い戦後の外来種が特攻花か? 現在も錯覚されている誤った外来種の特攻花 真実でない実話とされている特攻証言
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―黄色い戦後の外来種が特攻花か?―
日本会議大阪代表委員 苗村 七郎 |
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敷島の大和心をひと問わば 朝日に匂う山櫻花 古来、武士道としての魂≠ヘ散り際の美しい桜であると本居宣長先生は詠まれている。 これ程、陸海軍の将兵や国民全般・小学生にまで知られ、特攻隊員の心情を表わした和歌は無く、特攻隊の当初にも『敷島隊』とか、特攻兵器にも『桜花』と命名されている。 それを最近、特攻隊のシンボルの花を、全然関係の無い戦後咲いた黄色い外来種をもって、特攻花と宣伝する人達がいる。 これは史実を知らず、わざと枉(ま)げるものであり、現在、関心が非常に高まっている歴史教科書問題としても今、正しておかねばならぬ重大問題である。 知覧平和記念館にも「出撃する特攻機に桜の小枝を打ち振って見送る女学生の写真」が現存し、小生の古い著書『よろづよに』にも、特攻宿舎飛竜荘≠ゥら軍用トラックの荷台に乗り、飛行場に向う隊員が現在もある『竹屋神社の桜』が丁度頬(ほほ)を撫(なで)る高さにあったため思わず桜の小枝を手折って、昔の武士のごとく飛行服の箙(えびら)に挟んだり、機上に持込み出撃した事実。 それが戦後十五年程たった鹿屋で、五、六月頃、コスモスに似た黄色い外来種の花が咲くのをみて、特攻花と称する噂が出、歴史的にも無根の事実であり、思惑(おもわく)的の噂話であったため、私は史実が歪められることを憂えて、平成六年、南日本新聞社に『同列にできぬ特攻隊と原爆』を発表し、その中に今回と同じく戦後の外来種を特攻花と称することの誤りを正した。その甲斐もあって、その後は万世、加世田地区では誤った特攻花の話は一応終焉(しゅうえん)した。 さて、昨年八月十七日夜、TBS系で「二十六夜参り」が放映され、また、武田鉄也氏が「特攻隊員の命が宿る花のお話」を日航=JALウインズ誌8月号に発表された、その本の写真を見ても、またビデオを見ても、その花は桜≠ナ無く明らかに戦前や戦後に無かった外来種である。 この話の取材源は文中に書いてある、鹿児島県加世田市の万世という地区の旅館に泊まった時に女将から聞いたとあるが、私の調査では武田氏の母堂の来市はあったが、加世田市内や万世地区の旅館には、この本や物語りの前に武田氏自身は一軒も宿泊されておらず、私が毎年万世特攻慰霊祭挙行の時、三十年間も定宿にしている鹿児島県日置郡吹上町の温泉宿での取材であることを確かめ、そして女将の話された主旨と少し違うことを彼女も残念がっておられた。 いま、鹿屋地方で特攻花といわれ、武田氏がいっている特攻隊員の命が宿る花は桜花≠ナなく、鹿屋市役所の回答にも「五、六月頃開花し、南米に原生する、春車菊、大金鶏菊で、背丈50p〜80p、花弁は8枚、花の直径5p、コスモスに似るも黄色」とあり、完全に戦後の外来種である。武田氏のJALウイング誌の文中にある「その(物語)中心となるのは出撃を控えたる人の特攻隊員と旅館の女将、そして娘の一晩の出来事なんですが、全編を彩るのは鮮やかな黄色に染まった特攻花をおいて他にありません」と明記された。鮮やかな黄色に染まった花が「特攻花」なのか?余りに史実を無視して短絡的に特攻を使い,特攻隊員のことを物語にしていられる。 そして、また、文中に「別の機会に奄美に渡った時、やはりそこにも特攻基地があって、同じように花とともに出撃した隊員たちが、花だけは生きていてほしい≠ニ無人島の上空で花を落としていったという話を聞きました。」と書かれている。 けれど、よく戦争当時の純心な若者たちの実情を考えてほしい。特攻隊の方々は17才から22才〜23才位の若い純心無垢な青少年であったから、現代の大人達や識者でも気付かれていない、若い特攻隊の心情、即ち「自分の子孫や分身を残そうとする考えは無い」か、少なかった。むしろ大阪外大を卒業し、第六十二振武隊として散華した込茶 章(たかし)君(大尉)のように、あとで苦労するかも知れぬ恋人や自分の子孫を残さず、清らかな童貞のまま突入しようとまで考えていた人たちもある。 それで、父母・郷党への特攻に征く決意や決別の通信筒を投下したことはあるが、「花だけは生きていてほしい」と自分の分身となるべき花を飛行機から播(ま)くとか喜界島のように花束を子孫繁栄のために残すような女々(めめ)しい話は聞いたことがない、それに戦前、特攻隊員が全然見たこともない外来種の花を奄美の無人島に播いたという話は当然空想であり成立しない。 靖国神社のご紋も菊と桜の花であり、桜は日本の国の花とされ、特攻隊員が「特攻花」と信じ、桜花を箙(えびら)に挟(さしはさ)み、機上に持ちこんだ花は、黄色でなく所謂(いわゆる)、ピンクの桜色の桜であり、見送りの女学生もピンクの桜花で見送ったのは事実であり、万世特攻遺品館(加世田市平和記念館)には数多くの桜の花を詠んだ遺書が保存、展示されている。 それには、 『君の為(ため)散る花数は多けれど 中に一枝 若櫻あり』 岸 田 『大空に捧げて惜しぬ若櫻 目指すは 空母轟(ごう)撃沈』 陸軍特別攻撃隊 七二振武隊 少飛十三期 久 永 正 人 『我が胸のもゆる血潮の紅(くれない)は 永遠に栄えん やま櫻花』 (国華隊=六四振武隊 軍曹) 井 上 清 『吾もまた君に捧げん若櫻 散りてのち又(また) 七度仕えん』 七二振武飛行隊員 伍長 千 田 孝 正 『若櫻 異境の空に果つるとも 守らで止まじ 大和皇国を』 京都府中郡五箇村字五箇 伍長 岸 田 盛 夫 (注 現在 中郡峰山町字五箇 九四五) 若 櫻 陸軍特別攻撃隊員 伍長 早 川 勉 (注 万世で荒木伍長らと有名な仔犬を抱いた写真の伍長等、特攻隊員は総 て特攻花≠ニは桜であると決めて和歌を詠んでいる。) そして決定版 『咲いて牡丹(ぼたん)といわれるよりも 散りて 桜といわれたい』 とある。これは特攻散華の後も濃艶≠ネ美しい牡丹といわれるよりも、散り際の潔(いさぎ)よい清楚な桜花といわれた方がよいと表現し、今の黄色の外来種の特攻花を予め拒絶して『特攻花』は即、桜花≠ナあることを証明している。特攻隊員は、己の個人的生命よりも国を守らんとする使命感を大切にし、自らも日本古来の忠誠心の発露と確信して、自然発生的に特攻を志願し、次々と体当たり攻撃をかけていった。それが志願か、例(たと)え命令であっても、自(みずか)らのこととして後に続く者を信じ、祖国日本、親、兄弟、愛する人々を守らなければならぬという使命感とここまで戦えば、国や民族の誇りが続くにちがいないと信じ、突入していった。特攻は単なる派手な攻撃ではなく、どこまでも防御の戦い≠ナあった。 この特攻隊の純粋さ、神聖さ、厳粛さに戦(おのの)き、特攻のことを自ら征(い)った者と征(い)かされた者を区別せず、被害者の立場からのみ特攻を考え、もう一方の本当に特攻を実施された方の誇りを考える心の余裕、即ち、特攻を悲劇として悲しむだけでなく、特攻隊のことは悼(いた)む≠烽フであることを考慮に入れ、例え誰が見ても外来種であるのに特攻花と聞いて、これを軽々しく取り上げてほしくないと思った。 武田氏はフィクションとして書き、断っていられても、読み、聴視される方は余りに武田氏が有名であり、影響力のある方なので、一般大衆の理解力はついてゆけず誤解されるのが残念である。生命の尊さはわかっているけれど、花に愛情をかけ自分の命(いのち)を花に与え、残そうとするならば、それこそ散り際の美しい山桜に託したものである。 この桜花≠アそ、真の特攻花≠ナある。 今迄特攻隊の話でよくあった事だが、第三者的、傍観者的な考えから、自ら経験せずしてフィクションを作り、それが面白いからといって、今そこに咲いているからといって史実を曲げ、勝手にそれを特攻花と称し、フィクションで物語りにして後世に残して貰っては、戦友と桜の花咲く靖国神社で再び会わんとする彼等との誓約や今盛んに歌われている『同期の桜』も外来種に間違って摩り替えられては由々しい問題である。 敷島の山桜のようにパッと散華して使命を達成された特攻隊員の至純の心≠歪めて伝えることは慰霊顕彰に日夜尽力している吾等にとって断腸の思いにて、残念至極である。 |
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私の“黄色い、戦後の外来種が特攻花でない−真実の特攻花”が発表された後、この誤った特攻花を深く真実を確かめず、誰が云ったとか、今、云われているとか、よい話だとか、情緒的にとり入れ肯定されている。 平成12年2月1日発行の「海軍第14期会会報 第30号(8)」に“傘寿と金婚”と題する嶋本徳衛氏(土61出水1724)の文章である。 氏は昭和18年12月、学徒出陣し、海兵団入団、19年2月海軍飛行予備学生として土浦海軍航空隊に入隊された戦友会に熱心な方である。 その記事は、『嶋本氏の同期の市島保男大尉が第5昭和隊として鹿屋基地から出撃されたこと。』 『学徒出陣五十年の年(戦後の平成7年)、南九州の特攻基地・鹿屋、串良、第二国分、指宿(他の陸軍関係の特攻基地を巡拝されたかも知れないが一応海軍関係の基地)と慰霊碑巡拝、鎮魂をこめて御霊の冥福を祈られた。 そして鹿屋航空自衛隊の山本博秋二佐から特攻花と称する苗と種子を戴かれ、旧名古屋空草薙隊慰霊碑前に移植され、又地元公民館の花壇も豊田海友会の協力で特攻花一色に植え替え、自宅のお庭も特攻花と鎮魂をこめて軍艦旗を揚げられている。』 この事は常に特攻慰霊顕彰に努力している吾等には同感、誠に有難いことなのですが、次の記述、『あの特攻出撃に、エンジン全開一路沖縄に向け発進するとき、(これは市島大尉出撃時の感動的美しい描写と思う)滑走路の両サイドに咲く、大金鶏菊(当時、日本には無かった外来種)の黄色い花は、特攻機の進路と反対方向に傾いて、(エンジンを噴けば当然そのようになる)筆舌に尽し難い別離だった。』 (注) @『鹿児島在住海軍13期予備学生の友人に聞いても、鹿屋には滑走路の横に、今、云われている「特攻花」=南米原生の大金鶏菊,春車菊=は無かった。唯だ黄色い花があったとせば「菜種の花」ぐらいで大金鶏菊など見たことは無い。』 A『小生は陸軍の航空部隊員であったが、昭和20年3月20日より5月28日まで飛行第66戦隊は海軍の連合艦隊司令長官の指揮下になった。 当時、戦隊本部の情報将校を兼務していた私は事実上、何回か鹿屋基地に着陸し,離陸している。 けれど、外来種の今云われている特攻花を滑走中も上空からも見た事がない。』 本当に昭和20年4月29日の市島大尉の鹿屋特攻基地からの出撃を嶋本氏は現認されているのだろうか、その書かれている描写は本当に美しい心うたれるものである。次の記事 『いつとなく、誰言うとなく、この可憐な黄色い花を特攻花とよぶようになった』とある。この「いつとなく」のいつとは何年のことだろうか。これに対して私は、平成7年7月、南日本新聞に特攻花の誤解を解くべく書いておいたが、その当時はまだ小さな噂話程度で今の具体化されたフィクションは全然なかった。それが何故、噂話に尾鰭を付け史実と異なることが語り出されたのか残念である。 特攻花というものがありとせば、もっと純粋なものであり、戦後、進駐軍の馬匹の資料か何かに混ざって入ってきた、今繁殖に猛威を振るっているセイダカアワダチ草の如き外来種である大金鶏菊や春車菊に特攻隊員の心を宿らす誤りをせず、昔から云われ、特攻隊員が信じ、遺書や遺影にまで書き残し、日本人全部が信じている『特攻花』は即ち“桜花”であることを間違っても摩り替えさせないことである。 |
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最近、驚いたことに、真の特攻を実施、散華された隊員の心情を理解せず、誤った私見に基づく見聞により本当に突入散華された特攻隊員を冒涜する誤りの記述を発見した。 それは平成7年5月某有力新聞社発行の雑誌6月号に投稿された。昭和17年4月、普通の歩兵聯隊に応召し、乙幹(幹部候補生、俗に甲幹=中等学校以上の学歴で将校適任候補生 乙幹=同中等学校以上の学歴で下士官適任候補生)になり、翌年の昭和18年10月、新設の特別操縦見習士官(特操)第一期生として大刀洗陸軍飛行学校で操縦教育を受けた後、大刀洗陸軍飛行学校・陸軍航空士官学校の操縦教官となられた方が、題名 「元陸軍航空士官学校操縦教官の手記 特別攻撃隊の追悼 元名古屋大学教授 ○○ ○○」 を発表されているが、その記述において、一、特攻の痛恨 二、特攻隊の誕生 等他の記述は筆者の個人的考察として論評を差し控えるも、三、出撃の経過、同書227頁の次の著者記述、 『正式の特攻隊になると、直援機(直接援護機)が随行した。その任務は、特攻機を敵艦上空まで誘導し、特攻機を援護して敵迎撃機と交戦し、特攻機の戦果を確認して帰還、報告することである。しかし、その他に、離脱・逃亡しようとする特攻機に対する監視・処罰(撃墜)もあったとは、情けないことである』 −この処罰のために撃墜までした話。−こんな馬鹿げた事実無根の話は絶対にない。 当時、万世特攻基地で吾々攻撃部隊の飛行第66戦隊と共に基地防衛と“直援”に任じた飛行第55戦隊や特攻振武隊の生存者からも聞いたことも無く、また、そのような恰も、旧ソ連軍のゲーペーウや中国軍の督戦隊(当時、中国軍には実際にあった、実際に戦っている部隊を後方で監視・督戦する、もう一つの部隊)か日本軍にもあったような情けない考え方を苟しくも航空士官学校の操縦教官であった人が考えつかれ、それを将来、純真な若者にも影響力のある有名雑誌に書かれているのは残念至極である。 それに加えてなお次の記事も書かれている。 『末期には離脱不時着する者、そのために直援機に撃墜される者が出るようになった。 そこで、その防止のために、車輪だけは再使用するという名目で、特攻機の車輪を着脱できるようにし、離陸と同時に車輪を脱落させて不時着し難くするという、正に血の凍るような処置まで取られたのである。まさかと思われるこの処置は、決して伝聞や推測ではない。当時の技術将校として、実際にこれを設計された某大学工学部教授(故人)から、22年に直接聞いたものである』と書かれている。 この離陸と同時に車輪を脱落させて不時着し難くするという話は、多分、戦後二年経た後に聞かれたのであろうが、事実、昭和20年初め、車輪を離脱後脱落させる特攻機「劒」が実戦には使われなかったが、既に陸軍の航空審査部で試作され、試験飛行も終わり、実物模型も写真も現存するが、この「劒」の考えは氏の批難指摘されている“特攻隊員に必ず死なせるという死の強制目的”でなく、当時の戦争の実利目的から、爆弾以外の飛行機の自重を少しでも軽くして、より効果的な攻撃戦果を挙げようとした考えを優先したもので、決して、特攻隊員の離脱、逃亡を防止しようなど情けない、自虐思想からではない。(車輪が無ければ着陸できないのは素人考え) ここで50才代の人にこの話をした時、“車輪だけは再使用するという名目”に非常な関心を示したことである。これは“特攻隊は出撃散華せば還らないのだから、ガソリンは片道だけでよい”という誤った説と同じで、何事にも物質的、経済性で理解しようとする現代社会の病癖であり、ガソリンは特攻隊にも必ず満タンで出撃させている。そして車輪は離陸には必要であるが、着陸には、その生還した操縦者か生還しようと決意すれば車輪は重大問題ではなく、いくらでも「胴体着陸」を敢行している。 それよりも同氏が228頁に記述されている、川瀬七郎少尉のことである。それには 『やがて鳴咽を収めた彼は、「俺は、これでさっぱりした。何の未練もなく出撃できる よ。ところで、この泣き虫がどんな死に方をするか、よく見ていてくれ。その上で、毀誉褒貶はすべてお前達の勝手だ」と皆を見渡しながら言った。出発の日の彼は、いつもの明るさに戻っていたが、見送る我々の方か粛然として正視できなかった。やがて報じられた戦果には、川瀬機、敵巡洋艦撃破とあった。』 −むしろ、これが特攻隊を語る本当の話である。 “特攻隊員には遺書はない”けれど、この世に書き残された遺書などがある。これらの実話は拙著「陸軍最後の特攻基地」に数多く、なお詳しく記述してある。 どの特攻隊員にも当事者にしかわからなぬ想像を絶する苦しい“生”と“死”の人間として最大の苦悩が当然あり、その苦しみを乗り越え、一つの悟りを開かれた真の特攻隊員の自分の使命のため胸を張った“至純の心”とその神々しいまでの行動力を理解せず、『生還者が着陸できぬよう離陸時に車輪を脱落させようとした』等の事実誤認をこんな肩書の立派な人が発表せられては、実情を知らぬ次の世代の若者はこれを信ずる危険性があり、たとえ著者が第三者的に死を悲しむことからのみ考えられた誤りであっても、これを後世に残してほしく無いものである。 (終わり) |