|
会員投稿欄 |
|
このコーナーでは、日本会議会員の方の投稿を掲載させて頂いています。 ご希望の方は、日本会議の会員番号等を明記の上 メールください。尚、掲載の有無に関しては事務局にて判断させて頂きます。 |
|
吉田健一と三島由紀夫 |
|
日本会議会員 西尾 卓也 |
|
あらゆる歴史は詩にはじまり散文に終る−プロスメル・メリメ
筆者が、三島事件の資料調べで、大阪府中之島図書館の新聞室にて、毎日新聞昭和 45年11月号をめくっていて、17日付けの三面の欄に至った時、「あ!」となった。上段には「ヨオロッパの世紀末」で野間文芸賞を受けた吉田のインタビュー記事に対して、下段には「日本古典文学全集」に寄せての三島による恐らく生前最後の文章である。もっとも新聞ジャーナリズムに出たとの事柄に限っての話だが。彼は8日後の 25日、東京市ヶ谷の旧大本営跡にて、自らを西郷隆盛に擬して、憂国の心情を訴えた後、自決す。かたや吉田健一は、吉田茂の長男にして、牧野伸顕の孫、牧野は大久保利通の次男に当たるので、吉田健一は大久保の曾孫に当る。 昭和 45年11月、この時に戦後日本の転換点だったのみならず近代日本の何事かの運命的な歴史の流れが交錯した。二人の記事を一部引用す。吉田の著作は「ヨーロッパを論じながら、言外に日本文明を批判している。ヨーロッパを知っている吉田さんのような人でないと書けないもの」と紹介されている。 かたや三島は「日本人は何度でも自国の古典に帰り、自分の源泉について知らねばならない。その泉から何ものかを汲まねばならない。この『源泉の感情』が涸れ果てるときこそ、一国一民族の文化がつひに死滅するときであろう。」と遺言及び予言とも言うべき一節である。 繰り返す様だが、近代日本の運命を一身に担い、その矛盾(ジレンマ)の超克に自らの生の意味を問うたのが、サムライとしての三島の生涯である。では吉田は彼の自決に対し、どう評し論じたか。二つの文章が残っている。一部引用す。 「その死は事故による。例へば交通事故で死んだものがあった時に、それで改めてその思想とか生前の行状とかを云々するのは無意味であり、さうした死んだといふことが先に立っての詮索は週刊誌風の好奇心の仕業に過ぎない。」(三島さんのこと) 「『豊饒の海』の終りを読むと三島氏かさういう妄想(カルト・薬物中毒の類)に憑かれた人間だったとは思へない。併しそれだから平気で妄想にも取り憑かれるに任せたとも考へられて、もし自分の仕事の邪魔にならないならば人間には大概のことをすることが許されている。」(文士) 実に驚くべき、徹底的な無理解の態度に終始している。理解できないという以上に、理解しようという意志を、見事なまでに欠落させている。なぜであろう。吉田健一に関しては三十年後の今日、活動する文学者への影響も見逃せない。例えば、本年度(平成 12年)上半期の芥川賞を受けた東大教授(フランス近代文学・文化論)で、作家詩人の松浦寿輝は、「ヨオロッパの世紀末」で解説を書き(築摩叢書 昭和62年)、また吉田健一集(平成5〜6年)に解説者として参加している。平成2年には、「吉田健一頌」なる著作を四人で出している。他、三名は、丹生谷貴志・四方田犬彦・柳瀬尚紀である。いずれも翻訳者、文芸評論家、エッセイストとしても活躍中の人達である。又、作家としては、故辻邦生、池澤夏樹がいる。辻邦生は、「ヨオロッパの世紀末」(岩波文庫版)の解説者である。 松浦は「豊饒の海」を空虚な作品だ、との一言で、ある連載エッセイで述べていた事がある。唐突な指摘なのでひどく印象に残った。三島に関しては他の何人かは相当な距離を取った作品論があり、作家としての生き方のあり方に疑問をつきつけている。 文体の批判という形も含めて、吉田を讃え、三島を低く扱っている。なぜだろう。 しばらく二人を対比しつつ引用していく。両者自身及び、彼らの知己から引用したい。まずは文学観のあり方から始めたい。 吉田は「文学がなくても誰も困りはしない。先づそのことから文学を見直す、或いは考へ直さなければならない。」(余生の文学) 「要するに人並みの人間の生活をすることで文学の職人であるまでにその仕事が身に付いてこそ文士である。」 対する三島の文学観・作家観は、講演では「文学なんてのは社会を敵だと思はなきゃ始めるバカはいないんです。その上で、いかに己の言葉を社会に認めさせるかという事で自分の文学を始めました。」(学生との対話〜一部改める) 自決の半年前の大学教授との対話では、「自分を社会的不適格者と見なして文学を始めましたが、いざ成ってみて文壇社会を見渡すと 90%以上はそんな連中ばかりだ。今はつき合いあまりありませんね。連中といるとくさくてかなわん。昔はあこがれましたけどね。」(三好行雄氏と三島由紀夫の文学より、一部改変す)福田恒存をして、吉田の文学とは、讃めつつ、 「氏のうちには、他人の絶対に触れ難い豊かな心があって、氏はこの元金を銀行に預け放しにしたまま、後は利息だけで食っている。−氏の生活も附合も、そして専門の文学さへ、すべてこの利息で賄っているのだ。」とうらやましがっている。 三島は死の一週間前の最後の対話で、 「僕がやっている事(文学活動)は、机の足を切っているようなもので、一つを切ると、もう一方が『ガタッ』と来て、また今度はこっちが足りないとなって、また切って、そんなくり返しでもう足がない状態になっているんです。」との台詞を残している。(古林尚との対話−一部改変) 両者を比べて、時代の流れに逆らいつつ、士魂を生きんとする者と社会人としての評価(ステイタス)を高めた文学者では相入るわけがない。当然、吉田の影響を受けた文学者達が、強い拒絶間を抱くはずである。三島が極端な条件で話しているのを差し引いても、それ故に本音が出ている以上、ジャーナリズム・マスコミ界の成功者にして大学教授を務めている彼らとしても社会的評価を外国文学者(本職としての)としても得た影響は大きい。この十年で彼の再評価は高まった。吉田自身、幾つかの大学で教鞭についた事がある。 また三島は、先の最後の対話の中で、 「日本の戦前までの青年達は知性のあり方でドイツ精神主義的なものと日本との風土との融合で悩んだのですよ。」(古林尚との対話) 篠田一士の吉田健一を偲ぶ雑誌による回想によると、 「あの人は、ゲルマン的なものを全く受け付けず興味を示さないんだよ。トーマス・マンのいい翻訳が出たので貸したのだけど、全く読めなかったのですぐに返して来たよ。」(清水徹と) マン( 1875〜1955)は三島の最も目標とするドイツ文学者の一人である。次に二人はお互いをどう評したか。三島の死後だが、吉田は、対談での人のまた聞きだが、 「うん、いい子だったよ、ただ彼の欠点は日本に貴族というか上流階級があると思いこみが強かったね。そんなものは明治になってからわざわざ作られたものに過ぎないのにね。」(谷沢永一・ドナルドキーンと) 三島は中村光夫との対話の中で、 「吉田健一みたいに、アングロサクソンを百パーセント肯定すると、その文明の延長線としての、現代日本も肯定しようとの話になるな。そういう論理が強くなるよ。」(中村光夫と 「文学と人間」一部改変) やはり、かたや「骨の髄からアングロサクソン」にして「文明開化の体現者」たる吉田と、対する三島は「悠久な日本の歴史の申し子(中略)すでに成熟したものの誕生である。」(蓮田善明) この二人の対照は深く、相対するものは大きい。昭和 20年代から30年代まで十年程、鉢の木会という集いでのつき合いはあり、雑誌「聲」が10冊出された。そこで吉田は「英国の近代文学」何章かを、三島は「近代能楽集」の一部をそれぞれ載せている。「英国の近代文学」の始めはワイルド論だが、三島も20代の時に優れたワイルド論を書いている。また、ボオトレエル・ヴァレリイは吉田も三島も若き日の愛読書だった。吉田の師は、先の二人の訳も務めた河上徹太郎である。なぜ二人は決別したのか。理由はいろいろである。吉田のユーモアとも毒舌ともつかぬ彼の性格には我慢ならなかったという事もある。三島の趣味を吉田は、ひどくからかった。真摯さと冗談との区別を重んじた士としては、吉田のキャラクターは、ひどく不快をもよおすものだったらしい。また、ドナルド・キーンによると、戦前に外相ょ務めた有田八郎をモデルにした「宴のあと」のプライバシー問題で、元外相吉田茂の息子としてのつながりで、裁判にまで至った問題を仲裁しようと試み、神経質になっていた三島の勘気を買ったとの証言もある。これに加えて、三島が昭和 35年に小説「憂国」を、翌36年に戯曲「十月の菊」を発表している。いずれも二・二六事件を舞台にしており、彼自身をして「いずれは書かなければならなかった作品」だった。しかし吉田は牧野伸顕の孫であり、牧野は吉田の妹和子と共に、二・二六事件で襲われ、あやうい所で命を取りとめた。三島は晩年に至る程、「憂国」の自主制作映画を作った位、彼らの行動を称賛している。これでは仲違いも当然に決まっている。 ちなみに三島は吉田については二篇の小品、吉田は三島については、昭和 20年代から40年代にかけて書評・作品論の形で二篇も書かれている。著作集で読めるのは二篇程ではあるが、それにしてもこの対照も気になる。ただ、年下の三島は、昭和30年代以降、日本文学の顔として、谷崎潤一郎、彼の師、川端康成と共に海外の日本紹介の英字文献文面で華々しく紹介されている。三人ともに「日本の文学は仏教である」(小林秀雄)に忠実であり、そして彼の遺作「豊饒の海」にしても最終の場面は奈良の門跡寺院でしめくくっている。三島は師の川端のノーベル賞を祝した文で、 「氏は日本文学のもっともあえかな、もっとも幽玄な伝統を受けつぎつつ、一方つねにこの危い近代化をいそいできた国の精神の危機の尖端を歩いて来られた。(中略)氏のみではなく千数百年にわたる日本の文学伝統と、当時に日本の近代文学者の苦闘に対して与へられたもの」と述べる事は、三島の作家活動の中心でもあった。そしてこの危機を「文武両道」で切り開かんとした事は既に周知の通りだ。 吉田の文学の根は中村光夫に言わせると、 「僕らにとって文学の中心を成しているのはどうしても小説です。」それに対し吉田は「シェイシスピアであろうと(中略)すべて詩であるゆえに文学なのであり、その美は氏自身の存在と同様、疑いようのないものです。」 それゆえに「近代の発生地である」「イギリスの文学をイギリス人と同じ形で身につけることができたのです。」「氏の偉さは、ここに体得した『文学』の観念の普遍性を信じ、いわばそれを身体のなかに生かしたまま、日本文学の渦にとびこみ、そこで長い忍耐の末、自分を表現することに成功した点にあります。」 三島は、また最後の対話の中で、締めくくりに当り、 「大げさな話ですが、日本語を知っている人間は、おれのゼネレーションでおしまひだらうと思ふんです。日本の古典のことばが体に入っている人間といふのは、もうこれから出てこないでせうね。(中略)もう最後の人間だからどうしやうもない。」(古林尚との対話) 冒頭での三島自身の文章と照応している予言と言っていい。吉田の父、吉田茂が戦後日本の路線としての吉田ドクトリンを、三島自身はゴーリスト(シャルル・ドゴールによって唱えられた反響・自立自存・民族の伝統尊重)として乗り越えんとして憲法改正を唱えた事も周知の事である。 吉田が、父、吉田茂の死(昭和 42年11月)以降、十年にわたり豊かな驚嘆すべき作品数を著したのに対し(30冊以上、著作集32卷)、三島のライフワークは遺作「天人五衰」に至ると石原慎太郎に言わせると、あまりの創作力の衰弱さ、痛々しさ故に読み終えて「涙がこぼれた。」(TVでのインタビュー)と言わしめた。三島の師、川端の自裁(昭和 47年4月16日)も、彼の自決が関連している事は今では周知の事だが、今は本筋から外れるので述べる事は避けたい。ただ繰り返して言うが、皇室の行く末への危惧と相まってすさまじい憂いと焦りを交えた嗟嘆へ至った。それ等を打破すべく起こした「楯の会」もジャーナリズムから「軍国主義のアナクロリズム」「文士の道楽」扱いされて、そして活躍できる場は、学生運動の沈静化と共に失われた。あの日、あの場のあの形でしか「自らの計画的な死は一個の作品として昇華し、その行為により三島は流れに逆らいつつも、サムライの住む英雄的日本に戻ってゆく。」事で矛盾に満ちた四十五年の生に決着をつけるしかなかった。彼自身、自決する寸前に、「しかたがなかったんだ。」とつぶやいて事を決した。吉田は「言葉の動きに魅せられた普通の人」としての詩人なのに対し、三島は「彼は戯曲を書けば天才である。」(篠田一士)三島自身もある座談かインタビューかで「本当は年がら年中戯曲を書いていれば一番いいんですけれど、そんなことはできませんからね。」と若き日に発言している。日本古典への教養が体に染み込んだ劇人であった。唯一の出版した訳本も戯曲だった。 近代日本四代(幕末維新・明治・大正・昭和)の歴史を具現した、西郷と大久保が明治を開き、子の牧野は文明開化で明治・大正・昭和の動乱を正面から生き抜き、そして吉田茂は動乱の後始末と復興を築き、吉田健一と三島由紀夫は昭和文学史、また 20世紀人としての文化のあり方に新しい形をつくり上げた。この四世代にわたる史劇は、昭和45年最長の元号となった年(明治を越して)、明治維新百年、確実に、厳かに一つの時代の幕を閉じた。三島事件は、近代日本の運命の晩夏だった。巻頭、メリメの台詞に次の言を加えてこの稚拙な論考をしめくくりたい。だが歴史は時としての詩を核とした劇に昇華しうるのではないか、故に東洋では「史は詩也」との格言が残っている。 |